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「野宿の旅」心得集["Journey of sleep", Yun know]
森私の本領発揮のコーナーです。10代、20代の頃、国内47都道府県を主に野宿しながら旅をしていました。ささやかな旅でしたが、それなりに得ることがいくつかありました。経験、体験に基づいて、これから野宿の旅をされる方に少しでも役に立つ(?)実用的な心得を公開します。
心得の右側の( )内は、心得の元になった事件、事象が発生した場所・地名を指しています。

また全国の野宿屋さんから提供して頂いた野宿に関する情報交換の場、『野宿屋さんのベンチ』に行って、話を拾ってみませんか。
目次[Index]
野宿,野宿旅心得18 東北の山奥には人情がたっぷり残っている(岩手県下閉伊郡岩泉町安家年々)
野宿,野宿旅心得19 東北の山奥には歴史がある(秋田県澄川開拓地跡)
野宿,野宿旅心得25 ガキを甘く見てはいけない(青森県津軽石川駅周辺)
野宿,野宿旅心得30 小さな駅でも早起きすべし(島根県松江市東松江駅)
野宿,野宿旅心得31 惨めな気持ちになっても初志貫徹すべし(高知県足摺岬、徳島県阿波池田駅)
     この沿線は、ホモが特に多いらしいと、ある事件後知りました。
     まだ、私が20歳の頃(1970年代)、信州・蓼科近辺の山に登りに行く途中、群馬県高崎駅に泊まろうとしたときのことです。PM8:00の頃、駅の待合室で煙草を吹かしていたら、背後から、
      今夜、ここにお泊りですか?
    と40歳くらいのおじさんに声をかけられました。以下、その後の会話を記しましょう。

      若い頃の私「そうですが
      おじさん 「私は、終バスまで、まだ時間があるので、近くの喫茶店でコーヒーでも飲みませんか?
      …以下喫茶店にてコーヒー
      おじさん 「お腹空きましたか?
      若い頃の私「実は、まだ食べていないんですよ
      おじさん 「食事ごちそうしましょう
      若い頃の私「いいんですか
      …以下食堂にて
      おじさん 「ちょっと、飲みませんか?
      若い頃の私「いいですね
      …以下道々
      若い頃の私「煙草が、切れちゃいました
      おじさん 「買ってあげましょう
      若い頃の私「いいんですか
      …以下スナックにて
      おじさん 「君、なかなかいい足しているね」 ※この時、膝から下を切ったジーパンをはいていました。
      若い頃の私「そうですか
      おじさん 「おっと、いけない。終バスが出ていってしまったようだ。よかったら、この近くに私の知っている旅館があるから、そこに泊まって、朝まで語り合わないか
      若い頃の私「そんな趣味ないですよ
      おじさん 「そういう訳じゃないんだがね

     この後、おじさんがトイレに行った隙に、ザックを担いで駅まで無我夢中で走りました。ちょうど、信越線・横川駅までの最終列車に飛び乗ることができました。ただ、発車のベルが鳴り、ドアが閉まるまでの間、あのおじさんが追いかけてくるのではないかと、駅の改札口をハラハラドキドキ、見ておりました。あの時間は本当に恐かったですね。

     後日、とある駅で野宿した際、同じような旅をしている人に、この話をしたところ、
       「高崎線には多いんだよ、ホモがね
    と聞かされました。ただ、次の言葉が余計なお世話でした。

       「特に君のような顔はホモに好かれるんだよ(?_?)
群馬県高崎駅周辺にて [上へ]
     広島県・呉線の風早駅(1970年代当時無人駅、6畳程度の広さの待ち合い室あり)で、コロッケをメインディッシュに晩飯を食べていたときのことでした。どうひいきめに見ても、乞食さんとおぼしき人が、
      あんちゃん、まずそうなもの食ってるんだな
    といいながら、待合室に入ってきました。その乞食さんが、
      今日は、羽振りがいいんだ。ほれ、この缶ビール、飲めや
    の誘いに、これも旅での一つの思い出になるなと、ありがたく頂戴しました。続いて、ポケットをごそごそしながら、ささくれた真っ黒な手で、
      ほれ、さきイカも食えよ
    といわれ、これもありがたく頂いてしまいました。この後、楽しい話で盛り上がり、夜半、乞食さんはねぐらに帰っていきました。悲劇は翌日から3日間、続きました。

     ピーヒャラ、ピーヒャラ。相当しんどい、下痢でした。(;_;)
広島県風早駅にて [上へ]
     無人駅を宿泊場所にしながら、鈍行列車に乗って、よく、旅をしたものでした。全国の国鉄(1970年代当時、JRとは呼ばれていません。よくスト権ストという、訳の分からないことをやっていました)の路線・駅に関する書籍の中に、無人駅を記したものがあり、これを利用して、寝泊まり場所を決めていました。ただ、問題があって、泊まる予定の無人駅には、待合室があるのか、それもちゃんと四方壁で覆われているのか(雨風をしのげるのか)、現場へ行くまではわかりません。特に終電に乗って、降りてしまったら、えらい悲劇であります。そこで、よく使った手は、発車前に、運転手や、車掌さんに、
      今夜、ここに泊まりたいのですが、宿泊には適しているでしょうか?
    と聞いてみるのです。そうしますと、
      そこは、止めたほうがいいな。屋根はあっても、壁がないからね。それなら、あそこがいいんじゃないか、建て直したばかりで、ちょっとペンキの匂いが残っているかもしれないが。
    というような情報を大概教えてもらえます。特に、無人駅は、いわゆるローカル線に集中していますので、乗務員の方々は親切です。
西日本一帯にて [上へ]
     福井県・小浜線の東美浜駅(1970年代当時無人駅、4畳半程度の広さの待ち合い室あり)でのことです。
     この無人駅で、ご飯を炊こうとして水場を探したがありませんでした。そこで、近くに数軒人家があって、その一つの農家に、ポリタンをぶらさげて、
      今夜、東美浜駅に泊まるんですよ
    と、水を戴きに伺いました。奥さんだけがいて、恐る恐る、水を入れてくれました。まあ、田舎の人は人馴れしていないから、ああいう態度をとるんだなと思いました。
     さて、晩御飯を食べていると、強そうな男性が待合室に入ってきて、
      おまえ、そこで何をしているんだ
    と怒鳴られました。事情を話したところ、その男性は、
      俺が家に帰ったら、女房が駅に変な人がいるから、様子を見に行ってきてくれと言われたんだ
    とおっしゃいました。一瞬、私もムッときましたが、長髪で、何日も同じ服を着ていて、数日風呂に入っていない体裁でしたので、なるほど、世間はそう見ているんだなと納得したものでした。
福井県東小浜駅周辺 [上へ]
     冬、晩秋、早春の野宿は、寒いものです。寝酒をやるのも一つの手でありますが、酒を飲めない人のために、安くて便利なものを紹介します。
     それは、新聞紙です。寝袋の中に丸めた新聞紙を隙間無く入れるのです。これが結構あったかいのです。よく、バイク乗りが風除けに胸の当たりに新聞紙を挟むのと同じです。
九州周遊にて [上へ]
    ヒッチハイク ヒッチハイクは、そもそも金がないからやるという大前提がございます。つまり、なんら生産的なことをやっていないのですから、その代わり時間を消費することしかできないわけです。したがって、車がなかなか止まらなくても、当たり前、この姿勢がヒッチハイクの心構えです。
     高知県・中村市から足摺岬に行く際、ヒッチハイクをやることにしました。この時、家を出て、10日ほど過ぎて、金がなくなりかけていたので、少し節約する必要がありました。歩いて中村市の郊外まで出てから、例の、握りこぶしで親指を立て、顔を車に対しちょっと向け、視線はバッチリ、ドライバーに向けるオーソドックスなポーズを始めました。足摺岬に向けて歩きながら、1時間、2時間立ちましたが、観光地という所は、なかなか、車は止まってくれません。そこで、ここいらで、休もうかと、道路脇で横たわりになって、時々、親指の代わりに、足を上げ下げすることにしました。なんと、横たわって、10分もしないうちに車が止まってくれました。わからないものです。金が無い分、執念だけは持つようにしましょう。
高知県足摺岬にて [上へ]
    青の洞門 知らずに寝泊まりして、本当に恐い思いをしました。
     大分県・耶馬溪にある「青の洞門」に友人と一緒に野宿した時のことでした。右の写真が、その場所です。「青の洞門」は、実話の舞台となった所です。急流沿いの崖に作った道でよく人が落ちて死ぬという悲惨な状況を見かねて、どこかのお坊さんが、気違いあつかいされながら1人で隋道を堀り、何十年もかけて完成させました、確か、そんな内容でした。
     寝袋に入り、焼酎を飲みながら、バカ話を延々としているうちに、背後から、ピチャピチャ、ヒタヒタという音が聞こえてきました。振り向くと止まるのです。私だけでなく、友人も気づいています。ちょっとこわくなり、残りの焼酎をがんがん飲みながら寝ることにしました。
     翌日、青の洞門前で、露天風呂目指してヒッチハイクをしました。そのドライバー(30歳くらいの女性)に、昨夜の話をした所、そのドライバーはしばらくの間、黙り込んでしまいました。我々も、どうしたものか目を合わせました。そして、そのドライバーは、重い口を開きました。

      実は、1週間前、あなたがたが寝泊まりした近くの場所で、入水自殺があったのです
大分県耶馬溪周辺にて [上へ]
     自由きままな、旅の助っ人は、やはり周遊券です。その時の気分で、周遊エリア内を回れます。
     九州に、友人3人で旅に出たときは、購入した周遊券の額の3倍ぐらい利用したような気がします。1980年代の周遊券なので、現在と内容がいささか異なっていると思いますが、次のような使い方をしました。

    1. 東京を出発点に、名古屋まで東名ハイウェイバスを利用しました。パチンコ天国名古屋でパチンコのはしご。

    2. 京都にも途中下車して、つれ込み宿(後々どう思い直しても、その道の旅館でした。おかみさんに、妙な目で見られたのを記憶しています。)にて1泊しました。

    3. 大阪にも途中下車して、梅田の地上で素うどんを食べました。これが実に美味い。この時、人の少なさに驚き、
        まっ、大阪は東京の人口半分だから、こんなもんなんだろうな。
      と友人と納得していました。ところがどっこい、地下街に降りたら滝もあるし、人々の波。

    4. 今はなき、夜行急行「雲仙・高千穂」で明け方、関門トンネルをぬけて九州に上陸したとき、友人が
        腹減ったな。長崎チャンポン食いてぇーな。
      ということで、終点長崎駅まで行って、長崎の中華街でアサリ味のきいた美味い長崎チャンポンにありつけました。

    5. また、旅の途中で合流することになっているもう1人の友人とは、再度、長崎駅に行って落ち合うことにしました。あの長崎チャンポンをもう1度、食べるためでした。

     このようなことは、ほんの一例ですが、周遊券というやつは、いい演出家だなと感じています。
東京−九州にて [上へ]
    ラーメン 異国を長く、旅していると、故郷の味が懐かしくなるものです。ラーメン好きの私としては、九州に行くこと決めてから、あのとんこつ味のラーメンを食べられることに大きな期待をかけていました。本場に行って、やはりとんこつ味のラーメンは美味いと実感しました。九州上陸後、5日過ぎた頃、さて醤油味のラーメンでも食べたくなり、とある食堂に入ってみますと、ラーメンは全てとんこつ味でした。他の店に入ってもやはりとんこつ味だけでした。あきらめて、スーパーに行って、醤油味のカップヌードルを探すことにしました。

     クソっ、カップヌードルまで、とんこつ味でした。(+_+)
九州周遊にて [上へ]
     節約して安上がりの旅をしていると、お風呂は3日に1度入ればいいほうでした。富山から北アルプスに2週間ほど入山した後、上高地に下山したときのことです。この間、当然、お風呂に入ったりシャワーを浴びるといったような行為は一切できませんでした。しいてあげれば、数回、どしゃ降りの雨に遭い、雨シャワーを浴びたぐらいでした。松本駅で新宿行の急行アルプスに乗る前に、オシャレな私としては(若い頃、誰でもそうですが)、山と汗にまみれた匂いを消そうとオーデコロンを使いました。これが、馬鹿でした。夏の混雑期の自由席にもかかわらず、私の座った席の隣が空いたままでした。途中の駅で乗った人が隣に座ったところ、なぜか、鼻を何度もひくひくするのでした。後は、あらぬ方向に体を向けていました。

     相当臭かったようでした。私は、まったく気づきませんでした。(∵)
北アルプス、JR中央線にて [上へ]
     軍手は、本当に便利です。使い道を伝授しましょう。

    1. ガスストーブ等で、料理をする際、熱くなったコッフェルの取っ手をつかむのに使います。

    2. アルマイト等の食器で食事を摂る際、鍋敷きがわりに使います。

    3. 高山や、晩秋・早春の頃、手袋として使います。寝袋の中でも、使うときもあります。

    4. 汗拭きにも使えます。

    5. 次が究極の使い方です。なんと、トレペの代わりに尻拭きに使うのです。

         実例としては、北アルプスで縦走していたとき、雨に遭いしかもトレペをくるんでいたビニール袋に穴があいてて、トレペが雨水を吸ってしまいました。これでは、本来の役に立ちません。乾かすのも大変です。そうこうしているうちに、もようししてきてしまい、とっさに身近にあった頼もしい奴、『軍手』で我が尻の穴を拭いたのでした。2つできれい拭くのですから、コツは五本の指の部分を旨く使うことです。
         他の例としては、早朝ジョギングでも使うことがあります。早朝ジョギングは腹が冷えてもようししてくるときがよくあります。早朝は、トイレを使える場所がないため、野糞をしなければならないからです。ただ、冬の場合、防寒に使っていたのですから、野糞の後は覚悟して走らなければなりません。


     本の一例ですが、どうでしょう。何てたって、安いものですから、気軽に汚したり捨ててしまうことができますからね。
北アルプス、茨城県ひたちなか市にて [上へ]
     少ない予算で、長く旅を続けるために、例えば、1日で使うお金のMAXを1000円までと決めます。そうすると、三度三度、必須の食事にかかるお金が大きなウェイトを占めることになります。その対策として、米を持って自炊しながら旅をするのが一番よろしいのではないでしょうか。朝は、昨晩炊いたご飯の残りでお茶つけです。昼はインスタントの麺類、夜は、惣菜屋で買ったおかずまたはレトルト食品ですませます。飽きのこないようにメニューにバリエーションを持たせます。お茶付けは、鮭茶付け、梅茶付け、ノーマル茶付け。インスタント麺類は、醤油、味噌、塩味のラーメン、天ぷらそば、焼きそば、スパゲッティ等々。
     どうですか。栄養のバランスなんて考えません。これで、10日ほど旅を続けたことがあります。さすがに、最後は美味い食事に対し妄想を抱くようになりました。こういう経験をすると、食べ物のありがたさが身に染みます。金があれば、こんな苦労をする必要はありませんね。
西日本一帯にて [上へ]
     夜行列車の旅は、出会いの連続です。ゆれる列車の中では、なかなか寝付かれないものです。必然的に、向かい座った人と会話する機会が生まれてきます。その出会いのいくつかをご紹介しましょう。

    1. ある年の4月の頭、上野から青森に向かう今はなき急行津軽に乗った時のことです。この頃、東北地方から東京に出稼ぎに出ていた方々、故郷に戻ってきます。列車は満席です。栃木県小山駅から乗って山形駅まで、車内に入れずデッキに座っていました。山形駅から、空いた座席を見つけ座ることができました。その対面のおじさんが、
        あんちゃん、どこまで行くんだ?
      とたずねてきました。
        弘前までです
        そうか、俺は大館までだ、まだまだ先だな
      とおもむろに半分ほどあけた一升ビンをだしてきて、
        あんちゃん、飲んべ
      と。

    2. 夏、青森から、上野に向かう今はなき急行十和田に乗った時のことです。私の対面の席に、盛岡駅から若い華やかな雰囲気の女性が座りました。私は、直ぐに話し掛け、打ち解けた雰囲気になりました。彼女は、京都の舞子さんで、北東北の一人旅を終えて帰路に就く途中でした。話が盛り上がっていました。とてもいい感じでした。福島県・相馬辺りで彼女が、
        では、ちょっと
      といって、席を離れました。20分たっても戻ってきませんでした。結局、水戸駅に下車するまで、戻ってきませんでした。きっと、眠いのにうるさく話し掛けてきたのが迷惑だったのでしょうね。

    3. またある年の4月の頭、上野から青森に向かう今はなき急行津軽に乗った時のことです。この時も、小山駅から弘前まで行く用事で乗車しました。この時、車内はがらがらでした。その車内の隅に、オーバーオールを着ていた若いぽっちゃりとした女性が座っていました。当然、そこに座りました。私は、おもむろに
        チョコレートを食べませんか?
      と声をかけました。その子は、
        えっ!、いただきます
      、それから、話は盛り上がり長い道中、楽しいひとときを過ごせました。今、その子は、私の女房です。
東北地方にて [上へ]
     夜行列車で足を伸ばして、ゆっくり寝ることはほとんど不可能です。ただ、空いているときなら、旨く眠れる方法があります。それは、通路に寝てしまうんです。寝袋を持参すれば快適です。
東北地方にて [上へ]
    一筆書き切符 列車を使った旅が終わるとき、ずっと友のように行動を共にしてきた切符を駅員さんに渡さなければなりません。いいえ、そんなことはありません。旅の思い出の切符を自分のものにすることができます。駅員さんに、
      趣味で切符を集めています。無効にしてください
    と言ってください。切符に無効印を押した上で、切符を戻してもらえます。
     右の切符(1980年頃)は、東京都・立川駅を始発に青森県・弘前駅までの一筆書き切符(同じ駅を二度通過しない)を使って、山陰、中国、四国地方を旅したときに作った切符です。途中下車のハンコと、左上に終点弘前駅の無効印のハンコが見えるかと思います。

     ちなみに、この切符の経路は、次の通りです。

     立川→(中央本線)→塩尻→(中央本線)→多治見→(太多線)→美濃太田→(高山本線)→岐阜→(東海道本線)→米原→(北陸本線)→敦賀→(小浜線)→西舞鶴→(宮津線:現在、北近畿タンゴ鉄道)→豊岡→(山陰本線)→益田→(山口線)→小郡→(山陽本線)→三原→(呉線)→仁方→(仁堀航路:現在、廃航)→堀江→(予讃線)→北宇和島→(予土線)→若井→(土讃線)→多度津→(土讃線)→高松→(宇高連絡線:現在、廃航)→宇野→(宇野線)→岡山→(山陽本線)→神戸→(東海道本線)→草津→(草津線)→柘植→(関西本線)→名古屋→(東海道本線)→東京→(東北本線)→日暮里→(常磐線)→岩沼→(東北本線)→青森→(奥羽本線)→弘前。

     名古屋近辺で、クロスしないようルートの工夫をしていることがおわかりでしょうか。総延長約3,320Kmにおよび、全線鈍行列車を乗り継ぎました。

本州−四国周遊にて [上へ]
     時間に余裕のある旅をできる人にお勧めなのが、ローカル線に乗って気に入ったロケーションの所で途中下車して、ウィスキーをそのキャップでちびりちびりと飲むことです。例えば、青い空に、ふわーっとした雲がいくつか浮かんでいて、低い山が連なって、その下に緑の絨毯を敷いたような丘が広がっていて、そんな場所が1両だけのディーゼル車の窓から見えてきました。私なら、ザックを抱えて、直ぐに下車してしまいます。そこで、ザックの中からウィスキーを取り出して、ちびりちびりと飲むのです。ちょっと、酔ってきたら一眠りです。しごく、幸せな気分です、そう思いませんか。
東北地方にて [上へ]
     ダンボール箱は、旅の中で持ち運びはできませんが、現地調達した場合、これほど心強いものはありません。マットの役目、枕の役目、風除け、防寒に使えます。小雨程度ならしのげます。
     青森県・長苗代(八戸線)近くの跨線橋の下で野宿したときのことです。この場所は、以前乞食が住んでいた所でした。一緒に野宿した今は亡き友のとっておきの場所です。この場所で、新宿駅西口の連絡道の浮浪者よろしくダンボール箱でねぐらを作って寝ました。これが、実に快適でした。浮浪者が好んで、これを使う理由が分かりました。皆さんも試してください。浮浪者を見る目が変わりますよ、変わってください。
青森県長苗代駅周辺にて [上へ]
    安家年々公民館 岩手県下閉伊郡岩泉町安家年々での話です(1970年代)。ここは、国鉄・岩泉線の終着駅、岩泉駅前から、日に2往復しかない国鉄バスに、林道を2時間ほど乗っていきます。その、終点からさらに林道を2時間(距離にして10Kmほど)歩きます。私は、学生時代、体育会系探検部に所属していて、桃の木洞という鍾乳洞にケービング目的で、この安家年々に来たわけです。岩手県は、今となれば、東北新幹線や東北自動車道の開通で首都圏と結びついて、便利になりましたが、当時は日本のチベットと呼ばれ、その中でも、下閉伊郡はさらにチベットといわれ、こんな日本があるなんてという思いのする所です。
     入洞前日、年々地区の公民館(右側の写真が1977年当時の公民館写真です。右側のチャラチャラ男が若き日のまる高です。)に泊めていただくために、村長(むらおさ)のところに挨拶に行き、快く使用許可をいただきました。その村長の家では、奥さんとおぼしき人が、上半身裸、すなわち、おっぱいポロリの状態でした。見ている我々の方が恥ずかしい思いをしました。この地区は東西を深い山に囲まれていて、村の中央を細い林道1本と、小川が流れていました。その小川の所々に湧き水が有り、それを飲料水としています。洗濯は、その小川でするようです。翌日、驚いたことに、公民館の玄関前に、ざるに山ほど入った野菜が置いてありました。気味が悪いものですから、村長の家に行って、そのことを伝えたところ、

      それはだな、この村の子供たちが街に働きに出ていて街の人にお世話になっているから、街から来た人にお礼のつもりで誰かが置いていったんじゃろ
岩手県下閉伊郡岩泉町安家年々にて [上へ]
     澄川開拓跡地 探検部の新人歓迎合宿で、青森県弘前市から県境・田代岳を超えて秋田県田代町までの山行したときのことです。私はその新人でした。田代岳の下山後、澄川開拓地跡に幕営しました。何も知らず、ここまで連れて来てもらった私は先輩にここのいわれを尋ねたところ、明治時代にこの地に開拓にきて貧しい土地を苦労しながら開墾していったが、根尽きて撤退してしまったそうな。
     右の写真は、澄川で撮ったもので、真ん中の黄色のヤッケを着たウンコ・スタイルの男が若き日のまる高です。
     幕営した近くには、お茶碗のかけらや、朽ちた柱が転がっていました。





秋田県澄川開拓地跡にて [上へ]
     これは、止めたほうがいい。キャンプ場は、子供もいるわけで、止めたほうがいい。
     1990年代はじめの頃です。場所は、北アルプスのふところ、徳沢(上高地から歩いて2時間ほどの所)です。我々は、烏帽子岳から裏銀座コースで槍ヶ岳から下山し、ここに着いたときのことです。午後3時にはテントを張り、山行の疲れを癒していました。日差しはまだまだ強く、元、放牧場だけあって明るい雰囲気の広々としたさわやかなテント場です。夏休みは既に始まっていて、子供たちが結構いて、テント場を所狭しと走り回っていました。その頃、我々のテントの近くに、ドイツ系のカップルが2人用の小さなテントを設営していました。設営と同時にそのカップルは、テントの中に潜り込んだようです。周りが日本人ばかりで、ちょっと照れているのかと思いました。ところが、ところがだ、これが。いきなり、

       「アーンラブ、アハッラブ、ウフーンラブ、オーゥラブ、オーゥラブ
    ときたもんだ。
     この女性の声がすごい。吠えているとしか言いようがない。
     子供たちの親達はパニックです。子供たちは何事が始まったのか、ポカーンとしていました。子供の耳をふさぐ親、子供の手を引いてテント場を離れる親、それぞれ対策を講じていました。
     そんな、騒ぎをよそに、このドイツ系カップルはテント場と同じさわやかな雰囲気で、テントから伸びをしながらでてきました。

     馬鹿野郎。
北アルプス・徳沢にて [上へ]
     酒飲みの方、これは気を付けたほうがいいですよ。顔が完璧に別人になります。
     今、ユネスコの世界遺産に登録されて有名になった白神山地・白神岳から下山し、津軽西海岸の国鉄五能線の陸奥黒崎駅からほど近い砂浜に、野宿することにしました。夏の盛りの頃で、疲れを癒すために先輩とビールを結構、ガンガン飲みました。眠気が襲い寝袋に入り、顔だけ出して寝ることにしました。いろいろあった山行を思い出しながら……
     さあ、朝です。いきなり、全開の大爆笑です。先輩の顔を見たら、その顔がゴルフボールのようにボコボコしているではありませんか。何のことはない、私の顔も同じ状態になっていました。二人とも、ビールに誘われてやってきた蚊に刺されてしまったのです。
青森県津軽西海岸にて [上へ]
     酒飲みの方、これは気を付けたほうがいいですよ。
     探検部の新人の頃、津軽半島にあるロッククライミングの隠れた名山・縫道石山に行く前日に、同級のアホと午前3時の頃まで飲んでいました。かろうじて部室に泊まって、朝、同行メンバーに6時の頃、起こされその足で、弘前駅から青森駅に向かいました。縫道石山へは、青森港から陸奥湾を船でほぼ縦断しなければ行けません。この日は、低気圧の影響で湾内と言えども、かなり、波が揺れていました。元々、酔い続けていた私は、胃袋が激しく動き回ることにより、酔いが戻り、さらに酩酊状態になりました。

     目的の港に着いたときには、限界に達していて、さっそく、ゲロゲロ、ゲロゲロ、ペッペッペッでした。
青森県弘前市、陸奥湾にて [上へ]
     水不足の時期の旅は、大変です。何が大変かと申しますと、水を手に入れることができないのです。お金を払っても手に入らないのです。
     1978年夏真っ盛りの頃だと思います。信州は美ヶ原高原方面へ一人旅をした時の話です。扉峠方面から美ヶ原高原へ向けて、軽登山をするつもりでした。扉峠までは当然、ヒッチハイクでつないでたどりつきました。この時、信州は記憶にないくらい深刻な水不足でした。出発前にその状況はニュースで知っていました。扉峠の売店で、いつもの旅のように、水を分けてくださいとお願いに参りました。ところがです、無情にも
      水は分けられません。
    の一点張り。それほど、現地はひどかったのです。そこで、私は売店の自動販売機で缶ジュースを3缶買い求めて、美ヶ原高原へ向かう登山ルートを踏み出しました。時刻は午後3時です。本当は、扉峠で野宿するつもりでしたが、水を使えないことで晩飯(レトルト・カレー)にありつけない為、とにかく前に進もうと考えました。午後7時の頃、登山ルート中間で野宿することにしました。その時のメニューは、

    • ファンタ・オレンジ 1缶(残り2缶は朝食と非常用です)
    • 粉末スープまぜまぜ、くだき明星チャルメラ・ラーメン 1袋
       【作り方】 袋を開封せず、両手で5,6回袋をもんで中身を粉々にします。くれぐれも砕きし過ぎませんように。開封して、粉末スープを半分程度(好みにあわせて味付けしてください、全部入れると、かなり塩辛いです)、袋の中に入れます。袋の口を手でふさいでシェイクします。これでできあがりです。
    でした。

     満天の星を仰ぎながら、『レトルト・カレーを目に浮かべ、生唾、ゴックン』でした。
長野県美ヶ原高原周辺にて [上へ]
     本州の最北端、青森県下北半島・尻屋崎で野宿したときの話です。
     確か、10月のなかば過ぎの頃だと思います。恐山へ行く定期バスが春まで運休になる前日でした。とにかく恐山を一目見て、歩きたくて訪れました。観光客がほとんどいないせいか、期待通り、いやそれ以上、神秘的な風景が広がっていました。午後、尻屋崎の観光ポスターにひかれ、そこをその夜の寝場所と決め、バスを乗り継いで向かいました。着いたときは、既に夜8時になっていました。とりあえず、バス停から尻屋崎の灯台の灯かり目指して歩いていきました。灯台から100m位、離れた所でエアーマットの上に寝袋とツェルトマットで寝ることにしました。快晴の天気で、満天の星、波の寄せる音、沖には、イカ釣り漁船の漁り火が点々と光の線をなしていました。とても幻想的でした。
     さて、問題は翌朝置きました。エアーマットの回りは、馬糞だらけでした。そうです、あの観光ポスターは青い海、白い灯台、緑の草原、駆け抜ける茶色の馬達を紹介していました。

     クソォー、クソッ、クソッ、クソッ、やっぱり、クソォー
青森県尻屋崎にて [上へ]
    悪がき 青森県弘前市と南津軽郡大鰐町を結ぶ私鉄・弘南鉄道大鰐線の大鰐寄りに、津軽石川駅があります。この近くにある穴から、弘前城までを結ぶ地下道があると言い伝えられていました。
     弘前大探検部時代、3人で探検することになりました。穴自体は、高さ1m弱程度で、核心部は下に向かって進んでいましたが、がれきで埋もれていました。穴の中で一泊した翌朝、穴の外から、ガキ供(5人くらいいたのかなあ)が
      穴の中にだれかいるぞー
    と叫んでいるのが聞こえました。うるせーガキだなと思っていました。ガキの1人が
      えんぶりだしてやれ(いぶりだしてやれ)」。
    まさか、ガキがやるわけないと思っていました。そうこうしているうちに、煙が穴奥のねぐらまでやってきました。これは、一大事とばかりに荷物をかかえて、穴の外にとびだしました。

     そこでは、ガキ供(津軽弁ではワラハンド)はたき火をしながら、ダンボール紙をうちわにして穴の中に煙を送っていたのです。
青森県津軽石川駅周辺にて [上へ]
     12月のなかば、岩手県下閉伊郡岩泉町の氷渡洞にケービングに行ったときです。外は、薄らと雪、ベースキャンプとなる洞口内は氷のツララで囲まれているといった状態でした。
     最初の晩、いつものように、ちょっと濃い目の水割りを飲んで寝袋に入ろうとしましたが、寒くて寝るところの騒ぎじゃありません。その水割りはただの水と変わりありません。ウィスキーをストレートで飲むと、ちょうど水割り並みになります。
     ロシア人が70度のウオッカを飲み干す理由がわかりました。
岩手県下閉伊郡岩泉町氷渡洞にて [上へ]
     信州・白樺湖のキャンプ場での、夕飯の一コマです。2泊野宿して、白樺湖に着きました。たまには、設備の整ったキャンプ場もいいかなと、お世話になることにしました。その夜は、豪華にマーボドウフを予定していました。マーボドウフはレトルトで、パッケージは見るからに美味しそうでした。
     温めて、いざ開封してみたら、豆腐が入ってないではありませんか。開封するまでは、パッケージの写真のように豆腐が入っていると思っていました。やむを得ず、ご飯にマーボドウフの素をかけて、腹に流し込みました。裏のテントでは、ジュージューと音を立てて、焼き肉をしていました。洗い場で、そのテントの女性に会い、
      僕の夕飯、豆腐なしのマーボドウフだったんですよ
    と話し掛けると、
      そうですか
    で終わってしまいました。
     確か、焼き肉は、まだ3分の1は残っているはずなのに。
長野県白樺湖周辺にて [上へ]
    チャルメラ 弘前大探検部時代、弘前市郊外のロッククライミングのゲレンデ・座頭石で、1泊してロッククライミングをすることになりました。この時のメニューは食費を安く上げるために、インスタントラーメン尽くしとなりました。当然、具無しです。メニューは以下の通りでした。
    • 1日目
      【昼食】焼きソバ(多分、マルちゃん);【夕食】味噌ラーメン(多分、サッポロ一番)
    • 2日目
      【朝食】醤油ラーメン(多分、明星チャルメラ);【昼食】冷やし中華(多分、マルちゃん)

     2日目のお昼、テント場の前の沢で食器を洗っていた後輩が、
      先輩、ラーメンが沢の底で、うらめしそうに泳いでいるんですよ
    と。
     一同、込み上げるラーメン・げっぷに堪えながら、肯くばかりでした。
青森県弘前市座頭石周辺にて [上へ]
     人が誰もいない所で1人で野宿するときは、かなり覚悟がいります。そういう経験が何度かありましたが、特に恐かった2度の経験について、お話します。

    • お話1:岩木山九合目・鳳鳴ヒュッテにて
       梅雨の頃、単独で青森県・岩木山(標高1625m、富士山と同じコニーデ型の山)に登ったときのことでした。午後5時の頃、九合目・鳳鳴ヒュッテにたどり着きました。ヒュッテはいわゆる非難小屋で、この裏は日本海が迫っています。この鳳鳴ヒュッテは確か、昭和40年代にその付近で秋田県立大館鳳鳴高校山岳部が遭難し、それ以降建てられたと聞いています。鳳鳴ヒュッテの付近には卒塔婆が何本か立っています。
       ヒュッテに入ると、直ぐに飯を炊いてレトルトカレーで腹を満たしました。食後の紅茶を飲んだ後、ちょっと、ウィスキーを飲んだら、コロッと寝てしまいました。問題はその夜です。夜半、12時半の頃、小便をもようしてきて目が覚めてしまいました。ところが、ヒュッテの鉄のドアがバタンバタン、開いては閉じてを繰り返しているではありませんか。ヒュッテ内は、どうやら小生だけでした。とにかく、ドアだけは紐で縛りつけました。今度は、ヒュー、ヒュ−と女性がすすり泣くような声が聞こえてくるではありませんか。恐くて、結局、夜が明けるまで寝袋の中に顔をいれたままでした。寝てはいませんでした。
       夜明と共に、ヒュッテの外で下界に向けた小生のセガレは破裂した水道管のように、かなりの間、放水し続けていました。

    • お話2:津軽半島核心部を縦断する林道の中間地点にて
       7月の頃だと思います。小泊から三厩へ向かう林道を1人、歩いていました。暗くなってきた頃、林道から30mほど山に入った所にテント場に適した場所を見つけ、そこをその日のねぐらに決めました。とても静かな場所でした。夜半、お話1と同じようなことが起きました。またしても小便をもようしてきたのです。今度は、風は吹いていませんが、ふくろらしき鳥の鳴き声が近くで盛んに聞こえていました。その鳴き声は、恐怖を誘うような鳴き声なのです。結局、その時も朝まで我慢してしまいました。

     観光地ですと、経験的にこういう事にはなりません。単独で北アルプスや無人駅に寝泊まりしても、こういう事にはなったことはありません。それは、近くに誰かいるという安心感があるからだと思います。恐らく、単独行に慣れた小生の場合でも、半径1Km以内に人がいないと、不安になってしまうのでしょうね。
青森県岩木山、津軽半島にて [上へ]
     駅という所は、雨風がしのげ、わりかし安全です。ただ、時間帯によっては大変なことになります。
     当時、無人駅でだった東松江駅に最終列車で到着しました。小さな待合室でさっそく、バックパック下段から寝袋を取り出し、サントリーOLDウィスキーを愛用のオレンジ色のホーローカップにそそぎ、寝る前の儀式完了です。寝袋に入りチビリチビリ、ウィスキーを飲みながら今日の思い出に浸り、また明日の行き先を考えているうちに熟睡です。
     何やら、回りがやけにざわついていました。寝袋の口から顔を出したら、列車待ちの通勤、通学の方にズラーリと囲まれていました。とにかくバツが悪くて、バックパックと寝袋を担いで、駅の外にそくそく退散しました。
島根県松江市東松江駅にて [上へ]
     観光地という所は、実に誘惑が多い所です。野宿の旅を続けるには粗食に耐えることが重要なポイントになります。足摺岬に立ち寄った時には、家を出てから10日ほどが過ぎていました。ここで、焼きイカの匂いの洗礼を受けながらも、『1日、1000円以上は使わない』というルールで買うのをガマンし、灯台の近くのヤブにツゥエルトを張り、お茶漬けで夕飯を済ませました。
     翌々日、土讃線の列車で高松に向かう途中に、全国一立ち食いうどんの旨い駅・阿波池田駅がありました。とうとうがまんできず、列車の停車時間に持ち帰り用容器入りのうどんを買ってしまいました。ところが、発車のベルが鳴り出し、急いで戻ろうとしたら、なんと靴の紐がほどけていて、ホーム上でズデン。無残にもうどんは末広がりの状態に。泣く泣く、列車に飛び乗りました。
     あーっ、食べてみたい阿波池田駅の立ち食いうどん。
高知県足摺岬、徳島県阿波池田駅にて [上へ]
     自己流ですが簡単に、小屋がけ(形は屋根型)の手順を示します。

    1. 寝袋一つ分が入るサイズで深さ50cm程度の穴を掘ります。
    2. 太めの枝で、屋根の骨格を組み立てます。
    3. 小さめの葉がたくさん付いた枝を屋根の骨格にかけ、一通りかけたら、広めの葉がたくさん付いた枝をその上にかけます。
    4. 穴の底には広めの葉を敷きます。
    5. エアーマットを敷き、寝袋を広げれば出来上がりです。

     この原始的な小屋に寝た晩は快晴でした。屋根の隙間からこぼれるように星が見え、快眠が期待できます。
     ところが、明け方、妙に顔が冷たくて目が覚めました。どうやら夜露が落ちてきたようでした。顔の上に傘を広げて、もう一眠りの贅沢な時間を過ごしました。
青森県白神山地にて [上へ]
     小笠掛川マラソンに行く途中、静岡県清水市付近を東名道を走行中のことです。

    マラソン会場の近くで車中泊するために、愛車日産セレナのセカンドとサードシートをフラットにし、布団を敷き詰め自宅同様の快適な睡眠が可能な状態にしておきました。いつもの車中泊なら寝袋を利用しますが,翌日、フルマラソンを走るため万全の体制で望んだ次第です。

     さて、東名道清水市付近で工事と交通事故による渋滞に巻き込まれてしまいました。ノロノロと走行中、女子高生を乗せた大型観光バスと並行した時です。黄色い声で、

     「えっち〜」、「いやらしぃ〜」、「ああいう、クルマってアブナイのよね」等々の声声。

     小生の愛車はカーテンを閉めず外から丸見えの状態でした。しかも、毛布の色はピンクでした。
静岡県清水市付近にて [上へ]
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